เข้าสู่ระบบ御者台のほうで、不意に馬のいななきが聞こえた。 甲高く、短く、驚いた時の声だった。 続いて馬車がわずかに斜めへ揺れる。車輪が石を踏み外したような大きな揺れではない。けれど、普通の道の段差ではない種類の、急な揺れ。 リリアーナは咄嗟に窓の外を見た。 道の脇に、荷車が一台、妙な角度で止まっている。 本来ならすれ違う側へ寄るべきなのに、まるで道を塞ぐような位置だ。車輪の一つが外れたようにも見えたが、その不自然さに気づいたのは一瞬遅かった。「止まるな!」 外から、護衛の一人の怒声。 その直後、何か硬いものが馬車の側面へぶつかった。 鈍い音。 板が軋む。 馬が再び大きく鳴き、御者が手綱を引く気配。 エマが短く息を呑んだ。「お嬢様!」 次の瞬間、馬車が止まった。 止まらざるをえなかったのだと、すぐに分かった。前方だけではない。窓の向こう、反対側にも人影が見えたからだ。荷運び人のような粗末な外套。だがその立ち方が違う。腰が低く、間合いを詰める準備をしている。偶然道を塞いだ者ではない。 襲撃。 その言葉が、遅れて脳裏に上がる。 前世では、こんなに早くではなかった。 心臓がどくりと打つ。 息が浅くなる。 体は一瞬、凍る。 けれど次の一拍で、前世の記憶が逆に身体を動かした。 怖い、と思う暇より先に、まず何をすべきかが分かってしまう。「エマ、床に伏せて」 「でも」 「早く!」 エマをほとんど押すようにして、馬車の座席の下へ身を低くさせる。自分もスカートの裾を乱しながら床へ膝をついた。窓から見える位置に頭を上げていてはいけない。これだけは、もう身に染みている。 外ではすでに金属のぶつかる音がした。 短剣か、護身用の剣か。 悲鳴ではなく、男たちの低い怒声。 そして、ひときわ異質な音。 空気を裂くような、高い風切り音。 リリアーナの背中が総毛立つ。 弓だ。 しかも狙いは馬車そのものではない。護衛を散らすための牽制。「前より、早い……」 思わず口から零れた。 エマが「お嬢様?」と震え声で呼ぶが、答えられない。 前世ではもっと後だった。 しかも、やり口が少し違う。 あの時はもっと粗く、もっと混乱の中へ押し込むような襲撃だった。 今のこれは、手際がいい。 荷車で道を塞ぎ、射手
王都を離れる日取りが、ようやく現実の輪郭を持ちはじめた頃だった。 アデル叔母のもとへ向かう準備は、ひとつずつ、けれど確かに進んでいた。父は「静養は一月」と念を押し、継母は露骨に不満を隠さないまま、それでも表向き必要な手配だけは整えさせた。王都から西の丘陵地までの行程。途中で泊まる宿。必要最低限の衣類と書物。薬草院へ持っていくための礼と、母方の家へ送る事前の荷。 夢ではない。 逃避でもない。 それはもう、具体的な移動の話になっていた。 だからこそ、伯爵家の中は妙に落ち着かなかった。 父は平静を装っているが、書斎にこもる時間が増えた。継母は茶会の予定をいくつか詰め込み、娘が王都を離れる前にせめて「伯爵家の令嬢として恥ずかしくない姿」を周囲へ見せておきたいらしい。マリアンヌは姉へ何を言えばいいのか分からないのか、以前より静かにこちらを見つめるようになった。 そしてセドリックは、相変わらず止まらない。 花は前ほど頻繁ではなくなったが、その代わり、必要そうなものが増えた。旅向きの手袋。雨に強い靴底へ張り替えをすすめる職人の名。西へ向かう馬車の車輪に適した金具を扱う工房の一覧。露骨ではない。けれど一つ一つが、彼がこちらの出立を、もはや想像ではなく現実として扱っている証のようだった。 行くなとは言わない。 だが、行くための条件にまで手を伸ばしてくる。 それが不気味で、腹立たしくて、そして少しだけ、以前ほど完全には拒めない自分がいることにも、リリアーナは苛立っていた。 そんな中で、今日は王都郊外の教会附属の慈善庫へ顔を出す予定があった。 伯爵家から薬草院へ運ぶ予定の乾燥布や保存瓶のうち、幾つかを安く分けてもらえるという話があり、エマが「今のうちに見ておいたほうが」と勧めたのだ。継母は「どうせ静養へ行くのなら、その準備くらい自分で見なさい」と皮肉交じりに言ったが、それでも許しは出た。父も特に反対しなかった。むしろ、娘が静養に本気で向かっていることを示す行動として、伯爵家の体面上も悪くないと判断したのかもしれない。 だからその日、リリアーナは珍しく王都の外縁に近い場所まで出ることになった。 供は多くなかった。 表向きは慈善庫への買い出しに近い用事だ。大げさな護衛をつければ、かえって目立つ。御者と下男一人、侍女としてエマ、それに伯爵家の護衛が二名。近郊
「今の私は、そういう不器用な引き止め方をされても戻れないわ」 「……分かっている」 「分かってないから来たんでしょう」 「……」 「安全を並べれば説得できると思ったなら、それは管理よ」 「思ってはいない」 「じゃあ何」 「……理由を探していた」 その返答に、今度はリリアーナのほうが黙った。「理由?」 「行くなとだけ言えば、君は余計に離れる」 「そうでしょうね」 「だから、別の形で止められないか考えた」 低い声。 正直で、ひどく不器用だ。 それを聞いて、また少しだけ笑いそうになる。 本当に、この人は侯爵であるくせに、こういうところだけ驚くほど不器用だ。「それで、道が悪いから?」 「……」 「医師が少ないから?」 「……実際にそうだ」 「分かってるわ」 リリアーナは眉を寄せた。「分かってる。だから余計に腹が立つの」 「どうして」 「本当のことを言わないくせに、嘘じゃない理屈だけはきっちり並べるから」 それが、この人のずるさだ。 完全な嘘はつかない。 でも、本当に言うべきことからはずれる。 だから責めきれない。 責めきれないから余計に苦しい。「行くなって言えばいい。 離れてほしくないって言えばいい。 私を見えるところに置いておきたいって、そう言えばいい」 「……」 「そうじゃないと、私はまた、あなたが何を考えているのか分からないまま、条件だけ与えられる」 前世みたいに。 その言葉は飲み込んだ。 言わなくても、きっと彼には伝わった。 セドリックの目が、深く沈む。 今にも何かを言いそうで、でもまだ足りない。 この人の中で、言葉はいつも肝心な一歩手前で重くなる。 長い沈黙のあと、彼はようやく言った。「……離れてほしくない」 「……」 「手の届かないところへ行かれるのが、嫌だ」 その声音は低く、整っていた。 叫びではない。 懇願でもない。 でも、たぶん今の彼にできる最大限の本音だった。 リリアーナはしばらく返事ができなかった。 それを聞きたかったのかと問われれば、単純にはうなずけない。 だが少なくとも、条件の羅列よりはずっと胸に届く。 届いてしまう。 それが悔しい。「……それでも行くわ」 やっとそれだけ言うと、セドリックは目を伏せ
言ってしまってから、部屋の空気が少しだけきつく張った。 暖炉の火が小さく鳴る。 窓の外で枝が風に擦れる。 それだけが妙に大きく聞こえた。 セドリックは一歩も動かなかった。 だが、その沈黙の中で、彼の喉が小さく上下する。「……言えば、聞くのか」 「いいえ」 リリアーナは即答した。 それが余計に可笑しくて、そして切ない。 彼は言えない。 自分は聞かない。 それなのに、今こうして同じ部屋で、まるで答えがどこかにあるみたいな顔をして向き合っている。「でも、少なくとも分かるわ」 「何が」 「あなたが何を思っているのか」 その一言で、彼の目がはっきりと細くなった。 怒りではない。 むしろ、見抜かれた人間の一瞬の防御反応に近い。 リリアーナはそこで初めて椅子へ座った。 腰を下ろすと、少しだけ体が冷えていることに気づく。 両手を膝の上へ置き、指先を組んだ。「今のあなたは、条件ばかり並べる」 「実際に条件の話をしている」 「ええ。でも、欲しいのはそれじゃないの」 「……」 「私が欲しいのは、管理じゃない」 はっきり言う。 そこを曖昧にしたら、また同じになる気がした。「道がどうとか、護衛がどうとか、医師がどうとか」 「必要なことだ」 「必要でしょうね。でも、それで私が残ると思っているなら、やっぱりあなたは分かっていないわ」 セドリックは返さない。 返せないのかもしれない。「私は、安全な場所へ置かれたいわけじゃない」 「……」 「あなたの目の届く範囲に収められたいわけでもない」 「……」 「欲しいのは、そういう管理された安心じゃないの」 自分でも、その言葉がどこから来るのか少し分からなかった。 前世の記憶。 謝罪。 眩暈の夜。 全部が混ざっているのだろう。「王都の近くの別荘なんて、きっと静かで、暖かくて、医師も呼べて、何不自由ないのでしょうね」 「そうだ」 「でもそれは、私のためじゃない」 「違う」 「違わないわ」 そこでようやく、リリアーナは小さく笑ってしまった。 愉快だからではない。 あまりに不器用で、あまりに本音を言わないからだ。「あなた、自分でも分かっているでしょう」 「何を」 「私を手の届くところへ置いておきたいだけだって」 セド
小客間へ入ると、セドリックは立ったまま窓辺にいた。 今日は礼装ではなく、濃い色の上着に控えめなタイという、侯爵家当主として人前へ出ても違和感のない程度の簡素な装いだった。だが簡素な装いは、かえって彼の体躯や姿勢の隙のなさを際立たせる。窓の外から差し込む白い光が横顔に触れ、頬のあたりをより冷たく見せていた。 扉が閉まる音で振り返る。 視線は、いつものように最初に顔へ来た。 それから一瞬だけ、こちらの袖口、靴、手に何も持っていないことを確認するように落ちる。 まるで出立の兆しを一つでも見逃したくないみたいだ。 その視線の鋭さに、リリアーナはもう驚かなかった。「何の御用ですか」 挨拶もそこそこにそう問うと、セドリックはすぐには答えず、窓辺の小卓へ置いてあった書類を取り上げた。数枚の紙を束ねたものだ。王都近郊の地図と、行程表のように見える。 嫌な予感がした。「西の丘陵への道について、確認してきた」 「……確認?」 リリアーナは、わずかに目を細めた。「どういう意味です」 「伯爵家は正規の護衛を何人つけるつもりだ」 「まだそこまでは」 「少なすぎる」 話が早すぎて、一瞬ついていけない。 セドリックは書類を机へ置いた。そこには西へ向かう主要街道と、その途中の宿場、治安の悪い区間、夜営に向かない地帯まで印がつけられているらしかった。まるで戦地へ出る部隊に渡す資料のような緻密さだ。「春先の西街道は、表面上は穏やかに見えても荷馬車狙いの賊が増える」 「……」 「雨が続けば丘陵手前の土道がぬかるみ、馬車が取られる」 「……」 「加えて今は昼夜の寒暖差が大きい。体調が不安定な者が長旅をするには向かない」 「……」 一気に言い切ってから、彼はようやく息をついた。「向こうの薬草院には医師が常駐していないだろう」 「そこまで調べたの」 「当然だ」 「当然」 リリアーナはそこで、思わず笑いそうになった。 可笑しいのだ。 あまりにも可笑しい。 行くな、とたった一言言えば済む話を、この男は言えない。 代わりに、道が悪いだの、気候が悪いだの、賊がいるだの、医師が足りないだの、まるで領地調査の報告みたいに並べ立ててくる。 笑ってはいけない。 笑えば、きっと彼は本気なのだから。 でも、その不器用さが、ひどく滑稽で、少
西の丘陵地へ向かうための支度は、始めてしまえば意外なほど現実的だった。 夢のような話ではない。 逃避でもない。 箱を一つずつ埋めていくうちに、それはただの「移動」と「生活」の問題へ形を変えていく。 どのドレスを持って行くか。 薬草の本は二冊で足りるか。 筆記具は多めにいるか。 夜は冷えるだろうから、厚手のショールは何枚必要か。 雨の日用の靴は新しくしたほうがいいか。 リリアーナは自室の床へ半ば広げた箱の前にしゃがみ込み、畳んだ衣類の束をひとつ持ち上げては、また置いた。窓の外は晴れているわけではないが、昨日までのような重たい曇天ではない。薄い雲の向こうに日があるのが分かる。春の途中の、まだ心許ない明るさだ。差し込む光は淡く、箱の金具を鈍く照らしていた。 床の上には、王都に残すものと持って行くものが分けられている。 夜会用の華やかなドレス。 伯爵家の令嬢として「相応しく」見えるための飾り。 必要以上に白い手袋。 見られるために整えられたものたち。 それらは、今の自分にはひどく遠く見えた。 一方で、持って行こうと決めたものは、どれも妙に手へ馴染む。動きやすい昼用のドレス、上質だが丈夫なエプロン代わりにもなりそうな上掛け、厚手の靴下、筆記具、薬草の本。必要なものを選ぶ作業は、驚くほど心を落ち着かせる。何が「役に立つか」という尺度で物を見られることが、こんなにも楽だとは思わなかった。「こちらはどうなさいますか」 エマが、細い革の手帳を一冊持っている。 侯爵邸の庭で見つけた薬草の時期や、効いた煎じ方、眠れない夜に試した香りの配合などを、前世の終わり近くに書き留めていた小さな手帳だ。 リリアーナはそれを見て少しだけ指を止めた。「……持って行くわ」 「はい」 手帳を受け取り、しばらく表紙を撫でる。柔らかな革は角が少し擦れていて、自分がどれだけ何度も開いたかが分かる。侯爵夫人としての生活の中で、唯一と言っていいほど、自分のために積み重ねたものだった。 その時、廊下で慌ただしい足音が止まった。 ノックの音が、いつもより少しだけ固い。「お嬢様」 家令補佐の声だった。「ヴァレンティア侯爵様より、お使いではなく……ご本人が」 「……また?」 思わず口から出る。 最近、そればかりだ。 花。 贈り物。
呼吸が浅くなる。「お嬢様、本当にお加減が……」 「エマ」 顔を上げる。エマは心配そうに眉を寄せていた。何も知らない目だ。この子はまだ、侯爵家の冷たさも、あの結婚がどういうものになるかも知らない。何も知らないまま、数日後には笑って見送るのだ。どうかお幸せにと。 その純粋さが、ひどく痛かった。「婚約調印は……明後日ではなく、四日後だったわね」 「はい。旦那様も奥様も、支度に慌ただしくしておられます。お嬢様のお支度の最終確認も本日中に、と仰っていて」 「そう」 やめなければ。 その言葉が、驚くほどはっきり胸の中に落ちた。 やめなければ、また同じになる。 同じ朝を迎え、同じ家へ
窓辺の椅子。白木の化粧台。淡い花柄の壁紙。小さな暖炉。磨かれた床板。壁際に置かれた、母が選んだと自慢していた陶器の花瓶。 ここは。 ここは、エヴェルシア伯爵家の、未婚の令嬢だった頃の自室だった。「……エマ?」 声を出した瞬間、自分で息を呑んだ。 高い。若い。喉を使うたびに微かに震えるその声は、侯爵夫人として十年を過ごした女のそれではなく、もっと柔らかく、まだ世間に擦り切れていない頃の声だった。 ベッド脇に立つ侍女が、ほっとしたように眉を緩める。「はい、お嬢様。お目覚めでございますか。少しうなされていらっしゃいましたので、起こすのが遅れました」 エマ。 栗色の髪をきっちりま
最初に戻ってきたのは、痛みではなく、冷たさだった。 骨の奥へ、針のように細く、しかし容赦なく差し込んでくる冬の冷たさ。肌の表面ではなく、血の流れそのものが凍っていくような冷えだった。指先はとうに感覚を失っていたはずなのに、なぜか唇だけがひどく寒かった。息を吸おうとしても胸がひしゃげたように動かず、喉の奥では鉄の味がした。鼻先を掠めていくのは、夜気に濡れた石畳の匂いと、花壇の土の湿った匂いと、そして、濃く、温かく、気持ちが悪いほど甘い、自分の血の匂い。 ああ、死ぬのだ。 その時のリリアーナは、驚くほど静かにそう思っていた。 怖くないわけではなかった。怖いに決まっている。まだ二十九だっ
リリアーナ・エヴェルシア年齢:20歳スタート身分:エヴェルシア伯爵家長女外見:蜂蜜色の長い金髪、柔らかな翡翠色の瞳。白い肌に華奢な体つき。儚げな美貌だが、目の奥には芯の強さが宿る。淡いピンクや生成りのドレスがよく似合う。性格:穏やかで礼儀正しいが、ただ耐えるだけの女性ではない。追い詰められるほど静かに覚悟を固めるタイプ。人の悪意にも鈍くはなく、見て見ぬふりをしてきただけ。長所:忍耐力、気配り、家政と帳簿の管理能力、薬草知識、社交の場での観察眼など。短所:一度情をかけた相手を簡単には切れない。自分の痛みを後回しにしやすい。セドリック・ヴァレンティア侯爵年齢:27歳スタート身分







